をはる日記

感じたことを、感じたままに。

じぶんと社会と、会話する

f:id:aikawaharuka0229:20170429122440j:image

 

 ぬほーっ!おはるですっ

春ですなーー🌸

 

最近よく思うのですが

「自分のきもち」や「社会」と会話してあげるって、大切。

 

 

「疲れたな~」とか「こんな自分だめだぁ~っ」とかの

「きもち」に向きすぎると、彼らにのまれてしまうし

 

「これを期待されているから!」「あいつも頑張ってるから!」って

「他人や社会」に向きすぎると、合わせてむりしがち。

 

 

だからと言って無視をすればよいってもんでもないから、

 

いっかい、深呼吸。

 

んで、「わたしはどうしてあげたいの?」って、「じぶんに」聞く。

「わたしはどう向き合ってあげたいの?」って。

そしたら、「これ!!」って選ぶ。

 

 

そうやって、バランスとっていきたいもんですな(*'ω'*)

以上!バランスとり真っ最中のおはるでした!笑

今日もわっしょい!

 

私が、わたしを生きること

悔いのない生き方を、しているだろうか。

わたしは後悔のない今までを、生きてきただろうか。

もし 明日死ぬとしたら

わたしはどうするのだろうか。

 

 

わたしがこのまま 

他人の決定を生きながら

他人の思考を生きながら

年を重ねるとしたら

それは恐ろしいこと 怖いことだ。

 

父は悪者じゃない。

強い者の意思に従っていることが、

自分で意思をもつことよりも楽だったんだ。

その楽をわたしが、選択していたんだね。

 

 

でも これからは、

わたしは わたしの 人生を生きたい。

夢があるとかないとか、かまわないけれど、

それよりも何よりも私は、

わたしを自分で、 生きているひとになりたい。

 

辛いことも悲しいことも、楽しいことも嬉しいことも、

自分のものだと胸をはれるように。

 

流されるように生きている、ということ

5月が終わった。

初夏の風が心地よい。

目の前のことを追いかけるうちに日々が過ぎ、

結局何ができたのか、よくわからない月だった。

 

一定数、

与えられた日々をこなすような生き方をしているように感じる。

外の刺激に反応しているだけで、

内発的な、自分の想いや哲学が、

すっぽりと抜け落ちて、そこからは見いだせない。

 

与えられた枠組みのなかで、

ある程度の自由と自己決定感を満喫しながら、

守られた世界の中で生きる安心感。

それに浸かりすぎて

自分で生きる感覚を忘れてしまった人が

この国には

多くいるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

君は どうだ。

良いのか。

生き方の選択は、人それぞれだ。

君は どうするか。

 

 

きれいな話ではないことは想像がつく。

情けない自分も 叶わない努力も 身をちぎる悲しみも

すべて請け負うのだから。

 

でも

 

汗をとばした達成感も 心地よい疲労も 声をつきだす喜びも

味わいたいと思ってしまうのだ、私は。

 

 

 

 

 

 

 

君は どうするか。

私は どうするか。

日記を読んでいて気付いたこと

自分のノート

「社会人」になって1か月経とうとしている。

そんな折、自分のノートを読みえしてみた。

 

このノートは学生時代からつけているもので、

当時は心のむくまま ひたすらに書いていた。

今自分が感じていること、

課題だと思っていること、

やってみたいこと…。

 

年月の分、自分の内面にも変化があり

書いている内容も変わってくるわけだけど

その中で、ひとつだけ

ずっと共通していた言葉がある。

 

「目標設定」

「こうなりたいワタシ」

「結果をだせる自分になる」

「自分で納得できる自分になる」

「自分を許せる自分になる」…

 

「こうなりたい私」を描いて、

「今の自分との距離」を比較して、

その差を埋めようと頑張っていた。

 

このブログにも何度も登場しているけれど、

いーかげんこの考え方の限界が近い。笑

 

 

私は楽しくないとやれないし、

つまらなければ楽しくなる方法を考えたいと思うし、

それでもやっぱりつまらなければやめていいと思う。

 

現実感がなくて地に足のついていない考え方かもしれないけど、

自分に合わないやり方をとって なんとなく過ぎていく日常の方が

よっぽど現実味を感じられない。

 

 

だから。

私はわたしのやりたいようにやる。

やりたい姿で生きてみる。

これで死んだらそれでよし。

形を合わせてやらない時のほうが死んでいる。

自分の生命力を感じられなくなったら、終わりだ。

 

だから今日も、楽しくやります(((o(*゚▽゚*)o)))

そんな、をはるです。

「頑張ること」やめます。

なんていいますか。「頑張ってるからエライ」みたいな風潮ありません??

 「徹夜で仕事した」

「頭がわれるくらいにテスト勉強した」

「血尿がでるまで、白髪になるまで考えつめた」

 

 これらの言葉が、「どれだけ頑張っていたか」の証明文句としてよく聞かれます。

限界を超えてやり抜くこと=素晴らしい、というような。

さらに踏み込むと、頑張るやつは報われるんだ、みたいな。

これは一転すると、頑張ること→苦しさとセットだと思い込みやすい。

「苦しくないと頑張ってない」んだと思っちゃうんだ。

「無理してないから頑張ってない」

「気が遠くなるまでやってないから弱音をはいちゃいけない」

そうやってがんじがらめにして。

 

 

 それはいくらなんでも苦しすぎるわ。

でもさ、

もういいんじゃない?

 

楽にたのしくやって結果でるなら、それでオーライ。

苦しくないからって、頑張ってないわけじゃない。

「成長痛感じてないから!!まだ限界に挑戦できる!!」

そうやって自分を鼓舞するのもひとつのやり方だけど、

それが合わなくて自分の生産性を下げているなら本末転倒。

私は痛みよりも楽しさを感じながら、

スキップをするように進んでゆきたい。

 

 

「人生どれだけ頑張ったか?」じゃなくて、

「人生どれだけ楽しみきったか?」

さらにいうなら、

自分の死に際で人生ふりかえるとき思うことは、

「この人生どれだけ頑張ったか?」  じゃなくて、

「この人生どれだけ楽しんだか?遊びつくしたか?」だと思う。

少なくとも私の世界ではそう。

だからもう、そもそも頑張りなんてアイロンかけて送り返してしまえ。

 

 スキップしながら進む

努力をいらない、と言っているわけではない。

自分のやりたいことを実現するためとか、

変化してゆくためにいろんな工夫は必要。

 

だからこそ、私は(苦しみを伴った)がんばる をもうやめる。

楽しんでいける方に、シフトしてゆくよっ

 

そんな、をはるです。

奥にくすぶる生命力

 

 

何度考えてみても、

この世に生まれた意味はない。

 

わたしは勝手に生まれてきて、

わたしと名付けられただけであって、

私が生きている意味も 私である理由も

まったくない。どこにもない。

 

 

わたしを支えてくれる理由なんて何もない中で、

思い通りにいかないことが多いこの世の中を、

生き抜かなきゃならないらしい。

なんて、無理ゲーなのかしら。

 

 

死んだ方が楽じゃないって思っても、

死んでみたことがないからわからない。

死んだことがある人に話を聞いたことがないから、わからない。

 

わからないなら死んでみればいいじゃないって思ってみても、

なんだか違う。そういうことじゃない。

別に、死にたいわけではないんだ。

わたしはどうやら、死にたいわけではないんだ。

 

 

 

訳のわからないこの世の中で

日々色んなことが生きているこの世の中で

それでも心のきらり、と光る一瞬を

心の奥から感じられるその瞬間を

大切に思う自分がいる。

 

いのちが躍動すること。

私の奥にくすぶる生命力が、それを望んでいる。

この力が消えるまでは、もう少し生き続けてみようと思う。

 

 

明日はどんなひかりを見つけられるのだろう。

失敗や負け続きの日々の中でも、

「この瞬間だけは光かがやいたぜ」みたな一瞬があるのならば、

それだけでグッドだ。

f:id:aikawaharuka0229:20160124225339j:image