ひき算よりも、たし算とかけ算的に変化すること
池田晶子さんの本に、気になる一節があった。
「たとえば君は、イチローを理想の人物とする。自分もいつかああなりたいと思う。
それなら君は、彼を目標として毎日練習に励み、少々の辛さでは弱音なんか吐かないはずだ。理想を現実としようとする自分の努力に、疑いはないはずだよね。
それなら、そんな風に、理想によってこそ力強く生きられている君の毎日、つまり君の現実は、すでに理想であるといってもいいんじゃないだろうか。
…中略…
でも、もし君がここで、実際に大リーグに行けなかったことで自分を責め、「しょせん現実はそんなもんだよ」と言い出した時、まさにそれが君の現実になる。
理想と現実とを別のもの、理想を現実の手の届かないものとしているのは、現実ではなくて、その人なんだ。」
『14歳からの哲学 考えるための教科書』池田晶子 「理想と現実」
然るに、
「今理想の実現のために頑張っている、そう、そこのあなた、
今理想が実現されてますよ」ということだと思う。
チョットよくわからなかった。
理想とは、自らが掲げるゴールである。
こういう人になりたい、ああいう暮らしがしたい。その努力の過程(練習したり、お金稼いだり)は、それはまだ夢半ばであるのではなかろうか。
*****
三年に行った留学の間、私は「目標達成型人間」になろうとしていたことがある
(今でもその気質は色濃い。)
・定量的な数値目標と達成する日付を決めて
・そこまでにすべきことを洗い出して
・毎日それをこなしていく、 といった日々を過ごしていた。
結果、私の目標は何一つとしてゴールに届かず、
「私の努力した日々はなんやったんや!!」という思いと、
毎日の努力とノルマを達成できない自分への苦しさだけが残った。
(後日方法の反省はしたけれど、釈然としないまま終えた)
どうしようもなく、苦しかった。
それ以来、私は「頑張ること」が嫌になった。
受験や大学の勉強・課外活動など今まで全てをそれで乗り越えてきた私が、どうすれば良いのか分からなくなったのだと思う。
思えばあれは、引き算の中に自分の身をおいていたからなのかもしれない。
(写真青字の部分。自分の足りない部分に集中して埋めようとしては、足りない部分にまた目をやっていた。)
そうではないかもしれなくて。
「理想を実現しようとすること」とは、
いまある自分に
より素敵なものをつけ足したり、
広げたり深めたり、
彩りを加えたり、
そうすることかもしれなくて。
それはたし算であり、かけ算である。
ここまで考えたときに、私が長年言われ続けてきた
「もっと、肩の力抜いていいよ」
の意味が初めてわかった気がした。
明日から、わたしの世界がまた色を変える。
そんな、をはるです。
(おすすめ。何度でも立ち返る本。)