をはる日記

感じたことを、感じたままに。

濁流のなかに

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今までは泳げていた。必死に。
けのびやバタフライやらの泳ぎ方を覚え、
とにかく速く、前に 泳ごうとしていた。
一生懸命にがむしゃらに、泳いでいた。
 
ところがふと、この流れの先が気になった。
この川はいったいどこにあるのだろう。
どこに向かって泳いでいるのだろう。
この水はなんだろう。
 
すると突然、わたしは泳ぎ方を忘れた。
当たり前だ。
そもそも何を泳いでるのかわからなくなったのだから、
どうやって泳げばいいかもわかるはずがない。
 
 
それでも、流れはとまらない。
他のみんなは今まで通り、なにかに向かって泳いでいく。
私が止まると流れが強く私の体にぶつかり、大きな水しぶきをたてる、
強く、かたくて、圧迫してくる。
私が止まると後からどんどん人がやってくるから邪魔になってしまう。
進まなければ。
 
 
それでも、私は前に進めない。
進まなきゃ、と思うけれども
もう泳ぎ方が分からない。
とりあえず避難しようか、と思っても
周りには木片も岸部も見当たらない。
 
流れは押し寄せる。
徐々にわたしの体を押し流してゆく。
呼吸が浅くなる。
 
 
 
ふと 目をあげると、
泳いでいない人がいることにも気が付く。
錨をつかってとまっているひと
泳ぐのをやめて歩いているひと
ひとをやめて鳥になったひと
 
ふと 目をもどすと、
泳いでいる人に気が付く。
必死に泳いでいるひと
泳ぎつかれた目をしているひと
泳ぐのが楽しくて仕方がないひと
 
 
この流れの先はどこだ。
上がればいいのか泳げばいいのか。
先は見えない。泳ぎ方もわからない。
 
 
今は呼吸を保つのに精いっぱい。
そんな をはるです。

書くということ

わたしは、ブログを書くひとの気持ちがまったくわからなった。

そして正直、今でもわからない。

 

イケハヤさんやはあちゅうさんなど、

「ブロガー」と呼ばれて、それにより人脈や仕事を呼び込むひとは 

なるほど、と思う。

ビジネスに使われることや、情報告知のために使われることもあるだろう。

 

わたしが分からなかったのは、もっと内向的な、

「自分の考えを綴るブログ」の意味。

自らの身におきたこと、

そこから考えたことを文章にして

多くの「顔の見えない画面越しの相手」に向けて発信する行為。

まさしく今わたしがやっていること。

 

意見を主張するわけでもなく、

こんな考え方もありますよと提言するわけでもなく。

ただ自分の考えを書き残すだけ。

そこから何が生まれると思っているのか、

よくわからない、そんな気持ちでいた。

 

 

そんな私がブログを始めてみてわかった理由。

やってみて、これだ、と改めて府落ちた理由。

 

 

それは、エネルギーの放出。

自分体のなかに蓄積され凝縮されたものを、

その流れのなかの細いひとすじを掴むようにして、

言葉にせずにはいられない瞬間が、どうしてもある。

 

そして自分の言葉として書き出したのでは飽き足らず、

この熱を外の世界に放出してしまいたい、という衝動がある。

 

それによって何かが得られるというわけではなく、

ただ表現したくて、ただ表してみたい、というただの欲。

 

 

この欲をこうやって出し続けたとき、

これらの想いや考えはどこに行き着くのだろう。

そんな、をはるです。

 

気付いた時には わたし でした。

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これまでしばしば、
私のことを「わたし」と捉えることがでかずにいた。

鏡の中で同じ姿で映るひとを 
不思議な思いで眺めたり、
友人と他愛ない話を楽しみながら ふと
その会話を遠くに感じたり、
大きな失敗をして悲しかったことが
突然どうでもよくなったり。


わたしというひとは
私というひとを
他人のように感じることがある。
わたしの人生が他人事のように感じられることが何度も、何時でもある。


何でこんなに私に納得いっていないかって、それは恐らく、
わたしが気付いたらわたしだったためだ。
物心ついた時には、
わたしは既にわたしだった。

わたしが選んだわけでもなく、
ただ周りが私の名前を呼び 話しかけてくるから、
わたしはわたしのことを 私 と呼ぶようになった。
 
つまり、
わたし は知らないうちに、居た。
わたし  は気づかないうちに、もう既に存在していた。
そして、その  わたし が私となった。


どうもその事実が釈然としなくて、
こんな大変な思いをしながら、なんで私はわたしをしないといけないの、なんて憤慨していたんだ。


ただ、そこに理由なんてない。


わたしが私であること に始まりはあるけど、
わたしがわたしであること に始まりはない。理由もない。


そんなものだ。
わたしとは そんなものなのだ。
理由を求めても、そんなもの元からないのだから、見つかるわけもない。

理由を探すのはやめにして、
どうやら私は
このわたし というものと
一生一緒にやっていくしかないらしい。



…なんてこった。笑
そんな、をはるです。

問いのなかを生きること

今猛烈に、問いの只中にいる。

生きるって何か。
人生こんなに嫌なことばっかりで、死んだ方が楽なんじゃないか。
なんでこんな中で生きなければならないんだろうか。

そもそも私は、生きることを強制されたことはあっただろうか。
誰が私を生きるの決めたのだろうか。
あぁ、生きることに苦しみがなければ。
生きることは、苦しいのだろうか。

なぜ苦しいのに生きるのか。
死んだら楽なのか。
じゃあ死ぬって何なのか。
死ぬって存在するのか。
時間が過ぎたら忘れるって、
時間って過ぎるものなのか。
などなど。



何をするにもこれらの問いが体にまとわりついて、身動きがとれない。
日常に戻ろうにも、目に見えているルーティンの奥底に潜むものが
これらだと思うと、やはり身動きがとれない。
来週提出の卒論も、インターン業務も、日々の食事も手につかない。

えぇい、ならば片付けてやってやろうと思うけれども
問いが問いを呼び、際限なく広がってゆく。やはり手につかない。


大切なことを考えているのね、って。
なんてそんな生半可なものじゃない。

そんな現実逃避してないで、ちゃんとしなさい。って。
じゃあ あんたが生きてるところの、現実って何だよ。
何にむかってちゃんとして、
何のためにちゃんとするの。

 
一般化する、ということが
社会化することなのか。
社会人になるということなのか。
そこで躓くものは無能なのか。
何のために社会があるのか。
なんのつもりだ。


問いが激流のように体をかけめぐる。
ただ、わからない。

ひき算よりも、たし算とかけ算的に変化すること

池田晶子さんの本に、気になる一節があった。

 

「たとえば君は、イチローを理想の人物とする。自分もいつかああなりたいと思う。

それなら君は、彼を目標として毎日練習に励み、少々の辛さでは弱音なんか吐かないはずだ。理想を現実としようとする自分の努力に、疑いはないはずだよね。

それなら、そんな風に、理想によってこそ力強く生きられている君の毎日、つまり君の現実は、すでに理想であるといってもいいんじゃないだろうか。

…中略…

でも、もし君がここで、実際に大リーグに行けなかったことで自分を責め、「しょせん現実はそんなもんだよ」と言い出した時、まさにそれが君の現実になる。

理想と現実とを別のもの、理想を現実の手の届かないものとしているのは、現実ではなくて、その人なんだ。

 

『14歳からの哲学 考えるための教科書』池田晶子 「理想と現実」

 

然るに、

「今理想の実現のために頑張っている、そう、そこのあなた、

今理想が実現されてますよ」ということだと思う。

チョットよくわからなかった。

 

 理想とは、自らが掲げるゴールである。

こういう人になりたい、ああいう暮らしがしたい。その努力の過程(練習したり、お金稼いだり)は、それはまだ夢半ばであるのではなかろうか。

 

 *****

 三年に行った留学の間、私は「目標達成型人間」になろうとしていたことがある

(今でもその気質は色濃い。)

・定量的な数値目標と達成する日付を決めて

・そこまでにすべきことを洗い出して

・毎日それをこなしていく、 といった日々を過ごしていた。

結果、私の目標は何一つとしてゴールに届かず、

「私の努力した日々はなんやったんや!!」という思いと、

毎日の努力とノルマを達成できない自分への苦しさだけが残った。

(後日方法の反省はしたけれど、釈然としないまま終えた)

どうしようもなく、苦しかった。

 

 

 それ以来、私は「頑張ること」が嫌になった。

受験や大学の勉強・課外活動など今まで全てをそれで乗り越えてきた私が、どうすれば良いのか分からなくなったのだと思う。

 

 

 思えばあれは、引き算の中に自分の身をおいていたからなのかもしれない。

 

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(写真青字の部分。自分の足りない部分に集中して埋めようとしては、足りない部分にまた目をやっていた。)

 

 

そうではないかもしれなくて。

「理想を実現しようとすること」とは、

いまある自分に 

より素敵なものをつけ足したり、

広げたり深めたり、

彩りを加えたり、

そうすることかもしれなくて。

それはたし算であり、かけ算である。

 

 

 ここまで考えたときに、私が長年言われ続けてきた

 

「もっと、肩の力抜いていいよ」

 

の意味が初めてわかった気がした。

 

 

明日から、わたしの世界がまた色を変える。

そんな、をはるです。

 

 

 (おすすめ。何度でも立ち返る本。)

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

 

 

走ること、生きること

ハーフマラソン終わった時は死にそうなくらい疲れた。

けれど同時に、「生きている」ことを体の芯から感じた。


走っていると、自分のなかの「生命力」みたいなものが奥からあふれてくるのを感じる。

走る楽しさというよりも、身体の中をかけめぐる、血流のような、濃くて勢いづくもの。


人間は「生きもの」であり、生物だ。体でも生きている。

頭で過ごす生活を続けていると心と体を置いてけぼりにしがちだけれど、

でも、生き物だから、

それはむりな話だ。



生きもの離れが進む社会の中で、

私は、生きものであり続けたい。

明日も走ろう。

そんな、をはるです。


参考

坂爪さんブログhttp://ibaya.hatenablog.com/entry/2015/01/30/092600

ヒビノケイコさんブログ

http://hibinokeiko.blog.jp/archives/46344653.html


学問をすること

学問をすること



わたしの尊敬するひとたちは、

みな学んでいる。


たくさんの知識と知恵を求めながら、

自らを社会のなかに組み込み、

同時に社会からの被支配を拒否する。


どんなに活動的だって、

ビジネスうぇいうぇいしてたって、

問いとの葛藤がなければ惹かれることはなく、


どんなに地味だって、

いわゆるコミュしょうだって、

問いもつひとの話は心にずしんと響く。



あふれる煩雑さと不条理のなかで、

私はわたしの問いを背負いながら 

それに答え続けたい。  



そんな、をはる です。